ここで一言日記を書くようにして気づいたのは、「改行しなくていい」という条件をつけると書くのが一段快楽になるということだ。特にnoteやブログで多用する一行アケは、私にとって文章上の工夫というより絵を描く感覚に近く、気にいる見た目になるように画策してしまうところがある。でも改行しなくていいなら書くことに集中できる。気がしている。というわけで今日は仕事を納め、『NANA』の公開分をすべて読んだ。仕事はこの2ヶ月生きた心地がしないくらいだったのだが、なんとかなってよかった。これで明日から心置きなく読み書きの方に気持ちを持っていける。

昨日クリーニングに出したショールは、無事きれいな状態で戻ってきた。今日も仕事仕事の一日だったが、『NANA』全巻無料キャンペーンにまんまとのせられ隙間時間をLINE漫画に捧げる。今読むと、これは親に愛されたかった子どもたちがひたすらに周りの人としがみつきあう物語なのだということが一層強くわかる。ナナの子どもっぽさ、シンからハチへの「ママ」呼び、タクミとレイラの似たところのある暴力性、ヤスの抑圧、どれも哀しい。奈々が家族に愛されて育った人間であることも、そのまばゆさ故に切ない。

昨日10時間勤務してしまったので、今日は勤務開始を1時間遅くしミスドでぼんやり。チュロスを食べる。だがぼんやりしすぎていてデカフェのコーヒーをショールにぶちまけ、それ以上落ち着いてすごせなくなるという愚かな顛末に。とりあえず落ち着かないなりに『庭の話』を少し読んだ。ショールは帰り道にクリーニング屋に出した。店主のおじさんに染み抜きが必要か訊いたところ、「これなら洗うだけで落ちるかもしれないよ。染み抜きに出すともう3000円くらいかかっちゃうから、とりあえず洗うだけにしとこう」と淡々と返されて「信頼できる……」と思いながら帰る。クリーニング屋に着くまで、ミスドで休んだりしたのが間違いだったのだろうか、いつも通り保育園の後すぐ仕事をするべきだったか、としばらく考えていたのだが、その暗い気持ちがちょっと晴れた。これからも休める時は休もう。

子の世話と会社労働で朝から夜まで埋まり、それ以外のことがほぼできなかった日。人とM-1の話をした。私は、M-1は紅白に代わる国民番組になったんだなと感じている。お笑い芸人がタレントとしてもインフルエンサーとしても存在感を増し(言葉と身体を上手く扱うことが、以前よりも権力と直結する時代になった)、大御所による評価と大規模なトーナメントの攻略というゲーム性が時代とマッチし、さらに紅白が国民番組として機能しなくなっていったことで、必然的にその座に収まったように見える。いつまでそのポジションが続くのかはわからないけれど。月見バーガーの異様な人気ぶりなど見ていても思うが、やはりみんな社会の中に“風物詩”が欲しいのだ。「もうすぐ⚪︎⚪︎の季節ですね」「今年の⚪︎⚪︎はこうですね」と周りの人と言い合いたいのである。子どもを保育園に通わせていると、季節のイベントが一切なかったりしたら、年長の子らや大人側は退屈になるだろうと素朴に思う。一年という区切りを感じずにいられない私たちには、たくさんの風物詩が必要なのだ。そんな風物詩のM-1、今年も私はオープニングとエンディングしか観ていない。中身はまあ、そのうち観る。

昨夜は義父母の家で、義母の作った料理をたらふく食べた。大量のローストビーフとクレソン、ホースラディッシュ、ラタトゥイユ、葉物のサラダに山盛りの茹でたブロッコリー、てらてらと輝くにんじんグラッセ、濃厚なクリームスープ、ライ麦80%のどっしりした黒パンにカルピスバターたっぷり、デザートはアイスクリーム。欧米のクリスマスのような迫力ある食卓に一瞬怯んだものの、たまにはいいかと腹がいっぱいになるまで詰め込む。マメ氏一歳にはその直前にカレーを与えていたが、大好物のブロッコリーだけは私から素早くかっぱらって食べていた。どの料理も美味しかったが、普段あまり満腹になるまで食べないのでふらふらに。「久しぶりにお腹いっぱい食べた」と言ったら、義母がすかさず「普段、マメちゃんといると食べた気がしないでしょう」と笑ったため、ああこの人も子育てをした人なんだなと感じる。あとで夫のトーフ氏から、私が食べられない食材や料理について義母とかなり細かく打ち合わせしてくれたことを聞く。義母は私にあまりベタベタしてこない、見ようによってはクールなタイプなのだが、食べ物についてだけはいつも解像度高く私の苦手なものを避け、好みに合わせようとしてくれるので面白い。夫に「トーフ一家は、婚約した頃から常に私に食べさせるものに気をつかってくれていますよね」と言ったところ、「私たちは食べ物にがめついので……」と謙虚な返答をされた。
満たされた食事をしてビジネスホテルに泊まり、今日は三人で教会のミサに出席。帰り道、マメ氏がベビーカーの中で寝たので夫と少しだけカフェに寄る。夫がコーヒーのついでにクッキーを買ってくれて、初めてのデートのときも同じことをしてもらったな、と思い出した。クッキーはもちろん私の好みど真ん中の味だった。

家族で義父母の家へ行く。電車で1時間ほどかかるため、マメ氏一歳にとってはそこそこ大変な道中である。私は名古屋出身で母方の祖父母宅が三重県桑名市にあり、やはり実家の最寄り駅から向こうの駅まで1時間ほどだったが、小さいうちはこれがとんでもない大移動に思えたものだ。幼いマメ氏には当然辛抱のきかない長さで、終盤は私の膝の上でぐずぐず。しばらく「シナぷしゅ」を無音で観せたりもしていたのだが、ややあって隣に座っていたかなり高齢の老婦人が、マメ氏に向かってスマホを突き出してきた。画面には、高級そうな出で立ちでファッションショーのランウェイを歩く幼児が映っている。幼児は肩に巨大なリスを乗せ、着ている服もリスをモチーフにしているようである。ん? と思っていたら、幼児がペンギンやら巨大な鳥やらホワイトタイガーやら、次々とんでもない生き物と共に現れ、さすがにAI動画だとわかった。AI動画として見るとなかなかのクオリティだ。ランウェイの後ろでわらわらと動いている観客たちもリアル。こういうものを見ず知らずの人からいきなり見せられるとは、AIで作った画像や動画、テキストがいかにそこらじゅうにあるかを感じる。しかし老婦人はこれを本物と思ってやしないだろうか。私の心配を知らない老婦人は「すごいわよね〜これ」と言いながらマメ氏の顔を見ていて、マメ氏は何もわかっていない顔で画面を見ていた。

仕事の合間に気晴らしでパン屋に行く道中、また自分がヤーレンズについて考えていると気づいた。私は彼らのネタを見たことがなく、当然ファンでもなんでもない。ただ、最近読んだTBSラジオの記事が妙に頭に残っていて、ここ三日くらいやたらとその内容を思い出している。彼らは元々さほど良い関係性でもなかったが、コロナ禍の時期に他にすることがないからと、二人でただなんとなく会って会話を重ねていた時間を経て仲が深まったのだという。これ、すごく大事なポイントを含んだエピソードだと思う。目的なく集まり、他にすることがない状況で、何かを達成しなくてもいい会話を繰り返す。こういう時間は、小中学生の頃にはよくある。でも大人になるとなかなかない。何が一番ないって、「お互いに他にすることがない状況」が滅多にないのだ(片方だけ、はある)。だから本当にゆるい会話が成立せず、お互いが相手に対して気を許すモードを獲得できないのである。もちろん、コロナ禍を経てむしろ関係性が悪化して解散するお笑いコンビもたくさんいたのだろうけれど。とはいえ一定期間、無目的で不自由な時間を共有できた人間関係はやはり強いと感じる。”家族”というフィクションが強固なのもそのせいだ。パン屋ではベーコンエピとあんバターパンを買った。腹が重くなり、日中は他に何も食べないようにして過ごす。

昨日行った「ウィーアーザファーム」でお土産にもらったルッコラを朝食に出す。多めのオリーブオイルでカリカリに焼いたベーコンを、油ごとふりかけただけだが美味しかった。歯応えがしっかりあって苦いのが良い。夫にも好評。「風立ちぬ」に出てきた、ルッコラサラダをむさぼり食べるシーンを思い出した。あまりあれは美味しそうに見えなかったけれど。仕事が今日も猛烈だったため、昼休みは気分転換に本屋を歩く。ビジネス書や美容本を見ると「もっともっと」が激しすぎてうんざりしてくる。そういえばルッコラの花言葉は「競争心」「私を見て」なのだそうだ。ルッコラの領域から逃げ、買うか悩んでいた宇野常寛の『庭の話』と、あともう一冊目についた人文書を買う。二冊で六千円台。本にそれだけの価値がないとは全く思っていないが、それにしても財布への打撃はなかなかのものだ。

久しぶりに夜の外出。夫に子どもをまかせて、渋谷で友人Hさん・Hさんの長年の友人Aさんと食事をする。全員広義の出版・編集属性の人間なので怒涛の勢いでコンテンツの話をし続けてとても楽しかった。この属性の人たちと話しているといつも感じるのだが、企画を立てて生きている人間は、新しい企画の話になるとスーッと独特のモードが起動する気配がして面白い。いや、新たに何かがオンになるというより、普段も“企画者機能”はオンになりっぱなしで、企画の気配をキャッチするとそこ以外の回路に流す電流が自動的に減少し、企画者としての機能だけがくっきりしてくる感じなのかもしれない。特に書籍の編集者は、企画の話になると目の奥が本当にぎらりとする。そのぎらぎらを見ていたら、私ももっと企画を作ろうという気持ちになった。

マメ氏一歳に夕飯を食べさせていた時に、玄関のドアが突如開いた。まったくもって夫が帰ってくる時間ではない。そこに立っていたのはお隣に住む気のいいおばちゃんで、二人で廊下を挟んで硬直。つまり私はドアの鍵をかけ忘れていて、向こうは自分の家と間違えてうちのドアを開けたのだ。向こうもおそらく、同じフロアに住む親族の元に行って戻るというラフな外出だったため、自宅のドアに鍵をかけていなかったのだと思われる。おばちゃんは「ああっごめんなさいね!!喋りながら歩いてたから間違えちゃった!!」と飛び上がって恐縮し、私は私で「わーっすみません、鍵をかけ忘れたりして!!」と叫んだ。食卓に戻ったら、マメ氏がしばらくドアの方をちらちら見ては困ったような顔をしていたので面白かった。幼児なりに異常事態を感じたのだろう。実際、「第三者が予想外に自宅に侵入してくる」展開はものすごく怖い。ほんとうにコンマ数秒だが、犯罪者の可能性も頭をよぎった。マメ氏が食事を食べ終わるまで心拍数が跳ねたままだった。あれが犯罪者だったら、私はすぐにマメ氏を庇って逃げられただろうか。いろんな展開を考えてしまう。