とあるPodcastを聴いていたら(今年はなるべくいろんなものを聴こうと思っている)、ガザについてパーソナリティ二人が話していた。一人は、現地の特定人物に継続寄付という形で支援を行っているらしい。ただ、長期的に一人を支援するというのはなかなか大変な部分もあり、しばらく振り込みを忘れてしまったタイミングがあって慌てたという。「お金を渡すということもだけど、定期的にその人のことを思い出すということも自分にとって大事なんだ」とそのパーソナリティが語っていて、それは納得しながら聴いていたのだが、相手の反応に「ん?」となった。相手のパーソナリティは「それは相手も同じですよね。お金というよりも連絡してもらえることが嬉しいはず」と言ったのだ。いや、それはわからないだろう、と心の中で激しく突っ込んでしまった。遠く離れた国の人間に思いを寄せてもらえることが、絶望の中で救いになると感じている人は実際いるかもしれない。でも「お金よりも交流に救われるはず」と、安全地帯にいる私たちが言うのは怖いことだ。日々の食事を買うわずかなお金すらない人がガザには(もちろんガザだけではないが)恐ろしい数いる。子どもに食べさせるものを買うお金が私の手元に1円もなかったら、誰でもいいから、どんな理由でもいいから500円くれ、と気が狂うほど思うだろう。そういう状況を想像しながら、「相手もこちらと同じだろう」と言ったりすることはできない。かなりモヤモヤしてしまい、すぐに違う話題に移ったこともあってその配信はそこで止めた。こうやってモヤついたときにすぐ止められるというか、聴いていられなくなるところがPodcastが炎上しづらい理由なのだろう。
午後はエッセイストのひらりさ氏がうちに遊びに来る。夫と三人でカードゲームをした。夫が「二人は知り合って何年なんでしたっけ」と訊いてきたので数えてみたら12年だった。『百合のリアル』の刊行記念イベントに、当時編集者だったひらりさ氏が取材に来てくれたのがきっかけである。我々も社会もあれから随分状況が変わった。前進しているといいのだが。

書いていた記事が消えて傷心。今日は雑煮を食べ、午前と午後に年中無休の子どもを連れて外歩きに励んだ。元日でもやっている商業施設があってよかった。子どもはこの連休中にまた身体能力が上がって手がつけられない勢いが出てきている。外歩きの最中は、子どもをかまいながらのんびりPodcastを聴く。2人以上で話す形式の場合、会話が上手い組み合わせでないと聴いていて落ち着かない。夜は生まれて初めて、芸能人格付けチェックとかいう番組を少しだけ観る。能楽経験者の夫が、チラ見レベルでも能のプロと素人の見分けがちゃんとついていてすごいなと思った。袖のさばき方が違ったらしい。

紅白歌合戦を観る。B’zと玉置浩二は本当に強烈だった。ビッグスターの出演を見たというより「歌を聴いた」という感覚があったし、「ああ、いくらこの人たちでも、流石にこの歳になれば衰えるんだな」とこちらを寂しくさせるところがまったくない。むしろ歳を重ねることの凄みが伝わってくる。何も比べることなどできないが、このくらいを目指したいと強く思った。一方で、紅白歌合戦自体はやはり私には少し寂しい。皆で”昔の記憶”を見ている感じが、子どもの頃からどうにも苦手なのだ。歴史系のコンテンツは好きなのに、それと何が違うのだろう。