飽き

松田樹×三宅香帆×森脇透青 司会=植田将暉 2025年に批評は存在できるのか?──90年代生まれが見透す「これから」の論壇【ゲンロンカフェ出張版 in 京都】 を視聴する。3時間くらいあるうちの1時間半くらいイライラしていた。三宅さんに対する男性陣の絡み方が、あまりに私の昔見てきたサブカル批評っぽすぎた。「なぜはた」に批判するべき点がまったくないとは思わないが、こんなやり取りでは議論の土台ができあがらない。過去の批評文脈を持ち出して、あの手この手で批判のジャブを打つも相手が真正面からパンチを受け止めようとするとすぐに次の議論の叩き台を出すあの感じ。「**さんにお聞きしたいのは、**って**ってことなんじゃないかと思うんですよ」「**って問題があるじゃないですか」と別に質問形式になっていない自分の考えをとりあえずまな板の上に乗せて、相手が包丁で綺麗にそれを切ってくれるかを伺うような、それをやっていい側と受けないといけない側がなんとなく設定されているような独特の感じ。大学生の時にこの手のやり取りをUSTREAM(懐かしい)で飽きるほど見て、実際に飽きた時の感覚をまざまざと思い出した。私もかつて私なりに批評を必要とした時期があるのだが、こういう感じに関心を削がれ、いくつかの決定打があって完全に心が離れたのである。ちなみにそのうちのひとつは、東浩紀の寵愛をめぐって、醜い応酬が自分のTwitterタイムラインで繰り広げられたことだった。あの時、「あ、こういうものを見ていると自分の人生の時間を無駄にするな」と思ったのを強く覚えている。あれから軽く15年、みんな結局まだTwitterにいるし、相変わらず「批評とは」という議論は盛り上がる。平和だという証拠かもしれない。とはいえ今日はこれについて考えすぎて書く時間を削ってしまった。今日で終わりにしておこう。
批評に対して私のような愛憎がなく冷淡な夫は、私の話を聞いて「批評は社会運動だっていうなら、小谷野敦をもっと評価しないといけないですね」と言って風呂に去っていった。

日記