夫不在の過酷な一日。午前と午後、それぞれマメ氏を連れて外出する。午後は大きめの商業施設へ行き、おもちゃ売り場へ。マメ氏は最近まで、おもちゃの山に対してそこまで強い反応を見せなかった。たぶん音や人混みに圧倒されていたのと、物がありすぎてよくわからなかったのだと思う。しかし今日のマメ氏は、2人で歩いている最中にハタと足を止めた。視線の先にはトミカなどの車のおもちゃが。ついに気づいてしまったのだ。マメ氏はそのまま強くコーナーを見つめ、そっと近寄ると、「ブーブージャ……!」とつぶやきながら大きめの車のおもちゃを次々手に取っていた。気に入ったものを、傍にしゃがみこんだ私の膝の上にのせていくのが面白かった。マメ氏の車を見る視線は真剣そのもので、これが「好き」の始まりなんだとよくわかった。台に接着された車のおもちゃに特に夢中で、ずっと見つめて立ち尽くしているので私もそのまま放っておき、横についたままスマホのKindleで『ノートルダム・ド・パリ』の続きを読む。すでにものすごく長く読んでいる気がするが、まだ全然冒頭で変顔対決をしているところである。しばらくして飽きた子どもと家に帰り、また2人で遊んで過ごした。
Claude
Claude相手に、小一時間ほど創作活動の相談をする。非常に具体的で実践的なアドバイスをたくさんもらえた。特に限られたリソースに対しての具体的なアクションプランがとても綿密で良かった。と同時に、今の自分がどれだけ何も考えずにやっているかを痛感しややとほほな気持ち。いや、来年から心を入れ替えて頑張ろう。
古典瞑想
午前中は子どもの相手に全力を尽くし、午後はコーチングのセッションを一件、それからnoteのパーソナル編集者とその受講者が集う忘年会に少し顔を出す。私の担当をしてくれているみなみやんさんに会えたので満足。渋谷は恐ろしい人出だった。
ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』(辻昶、松下和則訳)を読み始める。ディズニーの「ノートルダムの鐘」は観たことがあるが原作は未読。ユゴーが29歳のときの作品だということも遅まきながら今回知った。『レ・ミゼラブル』を出したのが60歳のときだから、それより30年も前なのだ。最初の方は、これが一体どういう話なのか文章からあまり伝わってこずやや読みづらい。全体の文量もかなり多くて、読み通すのにはなかなかの努力がいりそうな予感。とりあえず少しずつ読める時に読むことにする。あと最近は、子どもを夫が引き受けてくれて風呂に一人で入れたとき、湯船で放心しながら古本のカポーティかスタンダールを読んでいる。そう長風呂もできないため、ほんの少ししか読めないがそれでも心が落ち着く。最近は古典を読むのが一番好きだ。インターネットもSNSも出てこないからだろう。
本棚と筋肉
本棚を増やした。スライド式で、背は高くないがわりと大容量のものである。本棚を増やさないと、というのはずっと思っていたことだ。我が家は夫も私も野放図に本を買うので、こまめに売っていかないとあっという間に家の中が大変なことになる。私の方は、きりがないのでもう長いこと大きめの本棚ひとつに収納できる以上の量は持たないように気をつけてきたのだが、結婚してからは夫の影響で気が緩む一方だ。というわけで増設。スライド式なのでパーツが多く重たく、やや億劫だったが、ドライバー片手に粛々と一人で組み立て、2時間ほどで完成させた。私は学生時代、小劇場演劇の大道具をしていた時期があるため、家具の組み立てにはあまり抵抗がない方である。しかし、あの頃に比べて圧倒的に筋力が落ちた。20歳の頃はサブロクの平台を両肩にかついで歩くことさえできたが、今はこんな組み立て作業をしただけで腕が痛くなる。産後の痩せが止まらないのもあり悔しい。来年はもっと筋肉を増やしてリッチな体になりたい。
仕事納め
ここで一言日記を書くようにして気づいたのは、「改行しなくていい」という条件をつけると書くのが一段快楽になるということだ。特にnoteやブログで多用する一行アケは、私にとって文章上の工夫というより絵を描く感覚に近く、気にいる見た目になるように画策してしまうところがある。でも改行しなくていいなら書くことに集中できる。気がしている。というわけで今日は仕事を納め、『NANA』の公開分をすべて読んだ。仕事はこの2ヶ月生きた心地がしないくらいだったのだが、なんとかなってよかった。これで明日から心置きなく読み書きの方に気持ちを持っていける。
NANA
昨日クリーニングに出したショールは、無事きれいな状態で戻ってきた。今日も仕事仕事の一日だったが、『NANA』全巻無料キャンペーンにまんまとのせられ隙間時間をLINE漫画に捧げる。今読むと、これは親に愛されたかった子どもたちがひたすらに周りの人としがみつきあう物語なのだということが一層強くわかる。ナナの子どもっぽさ、シンからハチへの「ママ」呼び、タクミとレイラの似たところのある暴力性、ヤスの抑圧、どれも哀しい。奈々が家族に愛されて育った人間であることも、そのまばゆさ故に切ない。
ショール
昨日10時間勤務してしまったので、今日は勤務開始を1時間遅くしミスドでぼんやり。チュロスを食べる。だがぼんやりしすぎていてデカフェのコーヒーをショールにぶちまけ、それ以上落ち着いてすごせなくなるという愚かな顛末に。とりあえず落ち着かないなりに『庭の話』を少し読んだ。ショールは帰り道にクリーニング屋に出した。店主のおじさんに染み抜きが必要か訊いたところ、「これなら洗うだけで落ちるかもしれないよ。染み抜きに出すともう3000円くらいかかっちゃうから、とりあえず洗うだけにしとこう」と淡々と返されて「信頼できる……」と思いながら帰る。クリーニング屋に着くまで、ミスドで休んだりしたのが間違いだったのだろうか、いつも通り保育園の後すぐ仕事をするべきだったか、としばらく考えていたのだが、その暗い気持ちがちょっと晴れた。これからも休める時は休もう。
風物詩
子の世話と会社労働で朝から夜まで埋まり、それ以外のことがほぼできなかった日。人とM-1の話をした。私は、M-1は紅白に代わる国民番組になったんだなと感じている。お笑い芸人がタレントとしてもインフルエンサーとしても存在感を増し(言葉と身体を上手く扱うことが、以前よりも権力と直結する時代になった)、大御所による評価と大規模なトーナメントの攻略というゲーム性が時代とマッチし、さらに紅白が国民番組として機能しなくなっていったことで、必然的にその座に収まったように見える。いつまでそのポジションが続くのかはわからないけれど。月見バーガーの異様な人気ぶりなど見ていても思うが、やはりみんな社会の中に“風物詩”が欲しいのだ。「もうすぐ⚪︎⚪︎の季節ですね」「今年の⚪︎⚪︎はこうですね」と周りの人と言い合いたいのである。子どもを保育園に通わせていると、季節のイベントが一切なかったりしたら、年長の子らや大人側は退屈になるだろうと素朴に思う。一年という区切りを感じずにいられない私たちには、たくさんの風物詩が必要なのだ。そんな風物詩のM-1、今年も私はオープニングとエンディングしか観ていない。中身はまあ、そのうち観る。
がめつさの恩恵
昨夜は義父母の家で、義母の作った料理をたらふく食べた。大量のローストビーフとクレソン、ホースラディッシュ、ラタトゥイユ、葉物のサラダに山盛りの茹でたブロッコリー、てらてらと輝くにんじんグラッセ、濃厚なクリームスープ、ライ麦80%のどっしりした黒パンにカルピスバターたっぷり、デザートはアイスクリーム。欧米のクリスマスのような迫力ある食卓に一瞬怯んだものの、たまにはいいかと腹がいっぱいになるまで詰め込む。マメ氏一歳にはその直前にカレーを与えていたが、大好物のブロッコリーだけは私から素早くかっぱらって食べていた。どの料理も美味しかったが、普段あまり満腹になるまで食べないのでふらふらに。「久しぶりにお腹いっぱい食べた」と言ったら、義母がすかさず「普段、マメちゃんといると食べた気がしないでしょう」と笑ったため、ああこの人も子育てをした人なんだなと感じる。あとで夫のトーフ氏から、私が食べられない食材や料理について義母とかなり細かく打ち合わせしてくれたことを聞く。義母は私にあまりベタベタしてこない、見ようによってはクールなタイプなのだが、食べ物についてだけはいつも解像度高く私の苦手なものを避け、好みに合わせようとしてくれるので面白い。夫に「トーフ一家は、婚約した頃から常に私に食べさせるものに気をつかってくれていますよね」と言ったところ、「私たちは食べ物にがめついので……」と謙虚な返答をされた。
満たされた食事をしてビジネスホテルに泊まり、今日は三人で教会のミサに出席。帰り道、マメ氏がベビーカーの中で寝たので夫と少しだけカフェに寄る。夫がコーヒーのついでにクッキーを買ってくれて、初めてのデートのときも同じことをしてもらったな、と思い出した。クッキーはもちろん私の好みど真ん中の味だった。
動物とAI
家族で義父母の家へ行く。電車で1時間ほどかかるため、マメ氏一歳にとってはそこそこ大変な道中である。私は名古屋出身で母方の祖父母宅が三重県桑名市にあり、やはり実家の最寄り駅から向こうの駅まで1時間ほどだったが、小さいうちはこれがとんでもない大移動に思えたものだ。幼いマメ氏には当然辛抱のきかない長さで、終盤は私の膝の上でぐずぐず。しばらく「シナぷしゅ」を無音で観せたりもしていたのだが、ややあって隣に座っていたかなり高齢の老婦人が、マメ氏に向かってスマホを突き出してきた。画面には、高級そうな出で立ちでファッションショーのランウェイを歩く幼児が映っている。幼児は肩に巨大なリスを乗せ、着ている服もリスをモチーフにしているようである。ん? と思っていたら、幼児がペンギンやら巨大な鳥やらホワイトタイガーやら、次々とんでもない生き物と共に現れ、さすがにAI動画だとわかった。AI動画として見るとなかなかのクオリティだ。ランウェイの後ろでわらわらと動いている観客たちもリアル。こういうものを見ず知らずの人からいきなり見せられるとは、AIで作った画像や動画、テキストがいかにそこらじゅうにあるかを感じる。しかし老婦人はこれを本物と思ってやしないだろうか。私の心配を知らない老婦人は「すごいわよね〜これ」と言いながらマメ氏の顔を見ていて、マメ氏は何もわかっていない顔で画面を見ていた。